漢陽(現在のソウル)から江戸までを船(海路)と陸路で移動し、往復約3000キロを約1年かけて旅しました。
日本では、往路、復路ともに同じルートを通りましたが、朝鮮では、地方の負担を軽減するために、往路と復路のルートを変えたと言われています。
4回~6回までの通信使は、江戸から更に、家康がまつられている日光東照宮(世界遺産)まで行ったとされています。
このことから、出発地となたソウルの世界遺産(昌徳宮や宗廟)から日光までのルートを関連付けて、近年、『世界遺産から世界遺産までのルートを世界遺産に』というキャッチフレーズで世界遺産化を進める動きが活発になっています。
歴史的な意義をもつ平和的国際交流の象徴としても、このルートの世界遺産化は注目されています。
ソウルで王様の命を受けた使節団は、ソウルの南の玄関となる崇礼門(南大門)を出て、釜山に向かって出発しました。
約500人の使節団一行は、約2カ月かけて釜山まで行き、日本に持って行く様々な荷物と船などを点検し、出発日を決めるまで約1カ月釜山にとどまったと言われています。
吉日を選んで出発日が決まると、釜山の永嘉台(ヨンガデ)で航海の安全を祈る海神祭を行った後、6隻の通信使船で迎えに来ている対馬の案内船に導かれ、対馬の佐須灘港へと出発しました。
釜山から対馬までは、朝出発して、夕暮れには到着したと言われています。
ソウルの崇礼門(南大門)→
対馬から大阪までは、対馬藩主の案内で船での移動でした。主要停泊地は、壱岐・相ノ島・赤間関・上関・蒲刈・鞆の浦・牛窓・室津・明石・兵庫でした。
相ノ島からは、日本の各地域の藩からの護衛船なども加わり、数百隻の船が移動する海上パレードが繰り広げられました。
大阪では、通信使船から下船し、藩主が準備した川御座船に乗り換えて淀川をさかのぼって、京都まで行きました。
←下蒲刈の朝鮮通信使資料館に展示された通信使船の1/10模型
京都からは陸路で京都の朝鮮人街道を経て、江戸まで進みました。
主な経由地は、近江八幡・大垣・名古屋・岡崎・荒井・藤枝・三島・小田原・藤沢で、江戸に入る直前の宿泊地は品でした。
滋賀県近江八幡市の朝鮮人街道→
朝鮮通信使が到着する2か月前から、日本の各藩では、下記のような通信使を迎える心得などの御触書が出されました。
①通信使船が通る時は航路を譲ること
②風習が違っても非難したり紛糾(もめごと)をおこさないこと
③通信使が通る道から見える家は、奇麗に清掃すること
④通信使の上陸時には、見物禁止
⑤朝鮮人に本や署名(サイン)などを要請しないこと
この中で、⑤はあまり守られていなかったとそうす。朝鮮人に書いてもらった漢詩を家に貼ると、厄除けになるとも言われ、通信使のいるところには毎日、文字や絵を頼む人であふれたと言い、夜も眠れず苦しんだという通信使の記録が残っている程です。
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