江戸時代の朝鮮通信使は、将軍の代がわりや慶事などの時に、朝鮮王朝の使節団が、朝鮮国王からの国書を持って来日したり、将軍の返書を持ち帰ったりした使節団のことを言います。
慶長12年(1607年)以降、12回にわたり、朝鮮から500人余りの使節団が日本を訪れました。朝鮮の漢陽(ハニャン=現在のソウル)を出発し、江戸(現在の東京)までの2000キロ弱(往復約3000キロ)に及ぶ大変な長旅でした。
海上では、日本側から迎える船などで大船団となり、陸上では日本側の警護などの人数を合わせると2000人にもなる大行列となりました。
当時、日本で朝鮮通信使の行列を目見物できることは、一生に1度か2度しか経験できないものであったため、街道にはたいへんな見物客が押し寄せたと言われています。まるで現在の韓流スターのようですね。
日本に内乱が続いていた南北朝時代、朝鮮の南部沿海地方や内陸を倭寇が荒らしまわり、その時の政府(高麗政府)は、その対策に苦慮していました。
そのような中で、1392年に李氏朝鮮が政権を奪還してからは、日本との外交関係樹立に努力しました。
一方、日本でも足利幕府が国内の内乱を収集し、中央政権を強化するにつれて、朝鮮や中国に対する平和的な外交関係を望むようになり、ようやく、日本・朝鮮の双方から使者の交換が行われるようになりました。
通信使の「通信」とは、「信」を通わすという意味であり、朝鮮通信使は、信頼関係に基づいた江戸時代の日本と朝鮮との平和交流であることにその意義がありました。
実は、足利時代から日本と朝鮮の国交が盛んになり、両国からの使者の往来も盛んに行われていましたが、豊臣秀吉の朝鮮出陣により一時中断してしまいます。
しかし、徳川幕府となってから、明(中国)との国交回復と貿易を目指した家康は、まず朝鮮との復交に力を入れ、通信使が再開しました。主に、この頃(江戸時代)の通信使を、「朝鮮通信使」と呼んでいます。
この朝鮮通信使は、1607年に通信使が再開してから200年余りに渡って12回、朝鮮から日本へ通信使がやってきました。
朝鮮国からの通信使の来日に対する国を挙げての歓迎行事を通じて、日本の民に幕府の権威を強く印象づけることに加えて、貿易による物資の交流や朝鮮の進んだ学問や文化を吸収するメリットもあったと考えられます。
秀吉の朝鮮侵略の経緯から、その当時日本に捕虜となった朝鮮人を連れて帰ることと、外交や日本の状況を把握するという目的があったと考えられます。
500人余りの通信使一行の長(ボス)は、正使(せいし)で、その他、副使(ふくし)、従事官(じゅうじかん)を含めた3人が通信使の責任者の三使です。
正使は、朝鮮国王からの国書を江戸幕府の将軍に渡すという大役を担っていました。
また、通信使の一行には、三使以外にも、書記や通訳、写字官、製述官の他に、楽隊や小童(才能のある子供たちの見聞を広めさせる目的で連れて行った)、そして日本の幕府要請で、医員や馬上材人(大道芸人)も派遣されました。
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